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産学官民交流事業

2023.08.04 第234回東三河午さん交流会

1.日 時

2023年8月4日(金)11:30~13:00

2.場 所

ホテルアークリッシュ豊橋 5階 ザ・グレイス

3.講 師

空手道豊空会 始祖師範(主宰) 田部井 淳 氏

  テーマ

『武 “道” 今こそ伝統文化の力』

4.参加者

32名

講演要旨

 最初に空手というもののイメージを皆さんどのように感じておられるか?闘う、瓦・板割り、型などをイメージとしてお持ちだと思う。空手のルーツは沖縄であり、意外と知られていない。沖縄は、台湾、東南アジア、日本、中国大陸のちょうど真ん中にあるかつての琉球王国であり、文化である武術を混ぜ合わせて形成されたものが当時「ティー」と呼ばれ、これが空手の始まりだと言われている。当時は中国武術「唐手(トーディー)」と呼ばれていたが、大正時代に逆輸入のかたちで本土に入り、般若心経の「空」の境地を目指すこと、空っぽの手で行う武術ということで「空手」という名前になった。そして、現代に至り、いろんな流会派が出来てきた。本来は大きく分けると「首里手」、「那覇手」という2つの流れがあったが、本土に入り「剛柔流」「松濤館流」など4大流派が生まれ、それから世界へ広まっていった。しかし、空手という競技はルールが一本化されておらず、当然アソシエーションも一本化されていないことが、空手というジャンルを複雑化させている。全く違うルールで全く違う運動能力を要求されるという意味では、「空手」と一口で言っても、スポーツ競技としては実は“球技”のようにたくさんある。世界中の空手愛好者は、2億人近くいると言われている。世界中にこれだけ広まったのは、先人の方々の功績だと思う。
 私は10歳で空手を始め、スポーツ競技を中心とした流会派で様々なインストラクターを務め、海外派遣も視野に入れて実績を積んで頑張っていたが、19歳の頃挫折を味わい、アクション俳優を目指して上京するも会社が消滅したことから、再び競技のスポーツ空手の活動に戻った。最初に自分が武道に望み、20代半ばで選手生活もあと10年程という時期に、「このまま続けていたら、きっと空手のOBになってしまう」「最初に自分が求めていた、武道の『道』はどこにあるのか」「自分が求めていたものがなかなか得られない」という想いに至り、競技で勝ち負けの経験をしても、自分の想いと違うルートを歩んでいるのではないかという疑問に行き着いた。当時の空手界というのは非常に閉鎖的なところがあり、突然、他の道場を訪ねて教えを乞おうとすると「道場破り」という扱いになりかねない…。どうしてもこの疑問を何とかしたいと思い、一計を案じ、20代後半に空手着メーカーの営業に就職し、いろんな先人の方々を訪ね、教えを乞う日々もあった。そこから紡ぎ出したものが「道」にフォーカスした武道「空手」であり、31歳の頃に「空手道豊空会」を主宰し、武道でなく、敢えて“「道」やりませんか?”と題してスタートした。
 「道」について、①「道」の共通項、②姿勢と脳と進化、③黙想、の3本柱でお話しさせていただく。何に基づいて「道」というか定義しなくてはならない。共通項としては「理」。宗教と科学は表裏一体であり、理とか法則がどうなっているのかを追求していくことが、宗教や科学の役割であると思っている。こういうことを感じられるように身に付けるのが「道」ということの機能であろうと定義することに行き着いた。武道は筋肉だけを使うのではなく、身体を物体(重さ)として使うことを旨としており、これをどうやって最大限に使うかという知恵が一つの大きな基礎となっている。書道を少し習ったことがあるが、まず姿勢を大事にしなさい、墨汁でなく墨を摺りなさい、筆は立てて使いなさい、と教わった。武道に置き換えると、身体の重さや道具の使い方など、一つ一つの意味が分かってくる。パソコンの時代に、「書道は非合理的であるから必要ない」と「道」が片付けられてはいけないと思う。毛筆だからこそ、重力で細いも太いも変えられる。これは「理」を感じることである。「引力」や「重力」は人間が作った力ではなく、自然の力「借力」であり、「自力は弱し、借力は強し」ということで、今は少し実感ができるところまで来た。かつて、「天と地の理に適う」と達人の方々が言ったが、「天と地の理」の初歩は重力のことであり、科学が発達していない時代に、なんとなく感じられていた身体の感覚をそう表現したのだと思う。武道が「道」であるならば、まず心を整えることが大事である。「字は人なり」というが、武道も「人」が出る。「空手道豊空会」では、初期設定の自分をどうやってコントロール能力を上げていくかということにフォーカスし、その部分を大事にしている。
 脳の発達というのは、引力と脊髄脊椎骨のいわゆる角度の関係と言われている。運動学的アプローチというが、両生類の脊髄神経は引力に対して直交し、安定している。四足動物になると、少し不安定になるが、脊髄神経は引力に対して直交となる。類人猿になると、体幹部が引力に沿う方向に上がってくることから、重力が何らかの形で脊髄神経を刺激することで脳が発達する。これが進化論の中では重要なポジションを占めている。人間の赤ちゃんは、腹ばいからよちよち歩きになり、二足直立歩行となって脊髄神経が引力に沿う形になった時、脳が発達して言語が話せるようになり、人間らしくなってくる。修行と呼ばれているものは、まず「姿勢」を大事にする。姿勢を意識することを学ぶと、脳に引力的刺激がくる。最近の子どもたちはじっとしていられず、姿勢を大事にするという機会もなく、教わってもいない。昔の武家社会では、「ちゃんとして!」という言葉の中に姿勢が入っていた。一度、脳に「ちゃんとして!」という刺激を入れ、姿勢を正しくした上で、礼節を覚える。「ちゃんとする」というのは、人間らしくきちんと直立するということが教育の中に入っていた。日本の伝統文化の特徴の一つは、「型」(作法)があることである。まずは、自分を作る。外国に行った時のお辞儀、空間に対する一礼、自分が使った部屋の掃除の申し入れなど、外国人にとっては非常に奇異に映る。量子力学におけるミクロの世界では、「無」という物質にならない空間がある。物質を構成する素粒子の間は「真空」であるが、そこには物質にならない「エネルギー」が充満していることが分かってきた。これを昔の東洋では「気」と言っていた。実験の結果、人間の意識がエネルギーになることが発見された。日本文化というのは、自分が快適に過ごすためにそこにきちんと自分の意識を一度置くと、場が変わることを知っていたのではないだろうか。空間にすら神が宿るということで、道場には「神棚」がある。空間にすら神がつくった産物、自然としての法則が働いていることを象徴的に忘れないように「空間に、神前に、礼」という慣わしがあり、日本人の知恵、奥深さを感じる。
 三番目に「黙想」というものがある。道場の稽古のいちばん最初、いちばん最後、そして中間に2回程、目をつぶって正座をしてじっとする稽古がある。お子さまをはじめとして、動きが止められない、注意力が欠陥するという方々が増えている。たくさんの情報がありすぎて、体から意識がはみ出し、いつもどこかに意識が浮遊しているように見える。「黙想」は、いちばん囚われやすい、いちばんそこに気持ちが行きやすい「視覚」というものを遮断し、「身体」に意識を置く。そのメソッドは武道だけでなく、書道もいわゆる「正座」をして一旦目をつぶる。「座禅」は、体幹部をまっすぐにしないと駄目であり、そのために厚い座布団が置いてある。日本人は、「正座」という脊髄神経がまっすぐになる唯一道具を使わずに座る方法を編み出した。体幹部をまっすぐにして座り、目を閉じ、自分の身体に意識を巡らすチェックリストを行い、自分の身体に意識が納まると静かになる。自分の身体を隅々まで意識するという時間が一日のうちにある方は少ないと思う。しかし「黙想」というテクニックは、1分でも結構、座って、目をつぶって、まっすぐ(重力)を探す。体幹部を一つの円柱として考えれば、無駄な力が要らない“垂直”を探す。外に散らばっていた意識が自分の身体に戻って来ると、落ち着いてくるのが分かる。その次に、頭に浮かんできたことをそのまま見つめ直し、さらに時間をかけるとその時に一番囚われていることが現れると言われている。きっとこの先に、「禅」とか「瞑想」とか言われるところの目的があるのではないだろうか。
 “「道」やりませんか?”という「道」は、いろんな文化の素晴らしいところを積み重ねた知恵の集合体である。武道に惚れて、解析すればするほど、こんなに素晴らしい日本文化を放っておいていいのだろうかという思いで、取り組んでいる。「道」というジャンルで武道が少しでもお役に立てるよう、空手道豊空会という団体でこれからも皆さんに感じていただけるように活動していきたい。「知識だけでなく自分の身体で感じる」、「身に付く」というところで、「道」と言われるものに少し勤しんでいただけるきっかけにしていただけたら、今回本当に無上の幸いである。