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産学官民交流事業

2023.03.03 第230回東三河午さん交流会

1.日 時

2023年3月3日(金)11:30~13:00

2.場 所

ホテルアークリッシュ豊橋 4階 ザ・テラスルーム

3.講 師

AMS amano musical studio 代表 天野 陽一 氏

  テーマ

『華麗なるミュージカルの世界?』

4.参加者

32名

講演要旨

 現在は豊橋市の向山アピタ前で「AMSアマノミュージカルスタジオ」を主宰している。毎年1回のミュージカル公演に向けて、1年間みっちりと基礎訓練から実践練習まで積み重ねており、まさに2週間後の3月18日、19日に迫っている。この地域から、プロのスターが出てくれるのを夢見て活動している。2017年に始めて、来年で7年目になる。その前は、国会議員秘書を3ヵ月、その前は豊橋市の小学校教員を3年間、2001年から2014年までは「劇団四季」で13年間お世話になった。本日は、その辺りを中心にお話しさせていただく。
 『オペラ座の怪人』の主役をやらせていただいたので、豊橋に来て、「すごいね。小さい頃からの夢を叶えて、本当にすごいね!」と言われるが、何のことはない。私は子供の頃から何の夢も持ってなかった。歴史情緒豊かな奈良県で育ち、マスコミに興味があったのでアナウンサーの華やかな部分だけを見て憧れて大学を目指したが、大学の初日にマスコミクラブのようなサークルから勧誘を受けとき、「君は関西弁のなまりが強くてアナウンサーは無理だね」と言われ、早速諦めた。どうしようかと歩いている時、ミュージカルサークルの人から声を掛けられ、飲み会などに参加してちやほやされるうちに舞台に出るはめになった。本当に人生で初めての体験で、「こんなに楽しい世界があるのだ!」という衝撃を受け、ミュージカルにはまることとなった。大学時代に何も勉強してこなかったので就職のあてもなく、仕方なく劇団四季のオーディションを受けたらたまたま受かってしまったっていうようなレベルでの入所だった。4月1日の入所式の時、代表の浅利慶太先生に初めてお会いした。今でもその時の衝撃が忘れられない。身長は190cmぐらいあり、当時70歳ぐらいであったが、ものすごくオーラが強く、開口一番、「舞台というのは見るは天国、やるは地獄だぞ!」といきなり脅された。「役者というものは全ての人生を劇団に捧げなきゃいけない」という話から始まり、とにかく禁止事項が多かった。バイクの乗車、海外旅行、スノボ、喫煙。面白いのが、恋愛。「恋愛なんかしている暇があったら、舞台に命を捧げろ!」というわけだが、2、3年たってくると廻りが見えてくる。そうすると、あちこちで誰かが付き合っていて、恋愛のパラダイス状態になっていることが分かった。挙句の果てに、浅利先生自身が主演女優と結婚し、私の妻も一緒にやっていた仲間である。
 このように、劇団時代がスタートしたわけだが、本当に浅利先生抜きでは語れない。寝ても冷めても浅利先生である。先生は2、3年前に亡くなられたが、本当に私自身の青春を捧げたと言っても過言ではなく、いまだに夢の中に出てくるくらいすごい人である。本当に厳しい人で、とにかく人をクビにするのが得意な人だった。1年契約で、年末の11月末ぐらいになると、ビクビクしながら過ごしていた。私はお陰で13年間在籍することができたが、いろんな知恵を使いながらなんとか生き延びて来られたというところである。演技はもちろん、発声が命で「1音落とすものは去れ」というぐらいシビアな方で、感情に任せて早口でしゃべると一発でクビになった。本当にクビになるのである。「出て行け!」と言われたら、明日から来てはいけなくなる。演技が下手くそでクビにされるのであればまだしも、日常的な挨拶の仕方でクビになることもある。私は常にアンテナを張りながら施設内を歩いていたが、トイレでのかしこまった挨拶、エアコンの付けっ放しによる電気の無駄遣い、神聖な稽古場での寝転がり、また衝撃だったのはもともと照明が暗い「オペラ座の怪人」における舞台の暗さなどを指摘され、舞台さんを平気でクビにする場面もあった。さらに驚いたのは、その時浅利先生がサングラスかけていたのだが、誰も文句を言えなかったことである。浅利先生は本当に厳しい人で、私自身3回クビになった。1回目はオーディションに寝坊してこと。反省文を書いて3カ月後に戻していただいたが、2回目は飛ばして、3回目は自分の母親を亡くし、奈良の実家に帰って1週間ぐらいお休みをいただいたところ、同じ時期に浅利先生お気に入りの韓国の俳優が父親を亡くして3日で帰ってきたことで逆上され、「もうお前なんかいらない」とクビになった。私もいい加減に愛想を尽かして辞める決意をしたが、そこから半年劇団に残ることになり、最終的には妻のご両親の関係で豊橋に来ることになった。本当に厳しい世界で、寝ても覚めても浅利先生に身も心も全て支配されている、そんな感覚だった。
 ここで終わってしまうと「本当にとんでもない人だ」で終わってしまうが、そうではないというところを今からお話しする。私は、『李香蘭』という戦争もののミュージカルに出させていただくことがあった。劇団四季は、『オペラ座の怪人』、『キャッツ』、『ライオンキング』など、海外もののミュージカルをそのまま持ってきて、そのまま上演するということで有名になった劇団であるが、浅利先生の中でもともとやりたいのは自分で作った作品であった。もともとお芝居の劇団だったが、それでは役者を食わしていくことはできないので、ビジネス転換するということで『キャッツ』を始め、それがたまたま大当たりして、今の大劇団になったということである。浅利先生は、自分たちで作ったその戦争ものの物語をすごく大事にされていて、熱の入りようも全然違った。本当に一から作ったものなので、役者に対しても厳しく、毎日稽古に入ってきて、毎日見られる、毎日一緒に過ごさなきゃいけないという感じだった。その中でも、私がいただいたセリフは特攻隊で突撃される前に直前に遺書として書かれたものが、そのままセリフになっているものだった。その役の人が7人ぐらい舞台に立って順番にそのセリフを読んでいくのだが、そのうちの一人の同級生が途中でバーっとセリフが抜けて頭が真っ白になり、5秒ぐらい止まってしまった。誰が見ても失敗だとわかるような大失敗だったが、気持ちを切り替えて謝りに行ったところ、意外なことに「舞台というのは生ものだから、こういうこともある。だからこそ日々のトレーニングを怠ってはいけない」とむしろ励まされた。それで「うわぁ。この人は何て心の大きい方なのだ」と思ってしまう。照明で契約解除された人は、その日々の仕事に対して怠けているとは言えないが、「慣れ」が出ていた。浅利先生は、「慣れ」、「だれ」、「崩れ」というのを嫌う。「慣れ」は「だれ」を産んで「だれ」は「崩れ」を生むというこの3段階の「慣れ」を1番嫌う。しかし、不器用なりにも一生懸命やってきた人間に対してはちゃんと思いやりの心を持って接してくれる、むしろ励ましてくれる人なのだとその時になって初めて気付いた。今の子供たちの指導に対しても、ちゃんと個性を認めながら、本当に一生懸命頑張っている人に対してはちゃんとその思いやりの心を持って励ましていきたいと思っている。
 浅利先生のすごいところは、会社を大きく成長させた「経営者」だったということである。経営理念の一つとして「役者の経済的自立」、これを1番に抱えていた。役者というのはとにかく食えないが、「食えない状況のまま役者をやり続けるのはもっと良くない」と言っていた。「劇団四季」とか「宝塚」という組織の劇団以外で「フリー」で活動して舞台だけで食べていける人はほとんどいない。「テレビに出るようじゃダメ。役者は舞台一筋で、それで生計を立てていかなきゃいけない」ということを第一の経営理念に掲げていらっしゃった。そのお陰で、私もアルバイトもせずに劇団活動1本でやらせていただいたわけなので、本当に感謝している。「とにかく役者を食わしていかなきゃいけない。そのためには、劇場を全国に展開しなければいけない」ということで、多い時には11カ所に劇場があるぐらいまで大きくされ、本当にすごいなと思った。「チケットぴあ」を始めたのも浅利先生が初めてだと言われている。それまでは全部「手売り」だったが、それで売り上げもだいぶ伸びて経営が安定してきた。そして2番目が「東京の文化集中の一極集中の排除」。「文化は東京だけでやっていてはいけない。地方でももっともっと発展しなきゃいけない。だからお前たちが、劇団を辞めた後は、いろんなところで文化の花を咲かせなきゃいけない。」というのは散々言われていた。今、豊橋でそれが出来ているかどうかはまだ分からないが、その一端を担わせていただいている自分として、浅利先生の教えが身に染みているのだと今感じている。そして3番目が、「演劇というものは、社会的な役割を果たさなければならない」ということ。歌って踊って楽しいだけではなくて、何か社会に貢献するために演劇というものがある。今回は「紫式部」を行うが、前回は『ノートルダムドパリ』を行った。「ノートルダムセムシ男」と言ったら皆さんご存知かもしれない。顔が曲がっていて、脊椎が曲がっていて、生まれながらにして化け物の子として育てられた人物を主人公として描いた作品であるが、これも人を見かけで判断してはいけないという社会的メッセージを込めて上演させていただいた。これも今自分がどれだけ出来ているか分からないが、自分の今の教室の一つの柱として今後もやっていきたいと思っている。
 ここで『紫式部日記異聞』をご紹介させていただく。「異聞」とは、紫式部のアナザーストーリーといったところ。紫式部は源氏物語を書いた人で有名だが、一般的に教科書で語られている紫式部とは違った角度から物語が進んで行く。普段おしとやかな女性でも家庭の中ではすごく男勝りだったり、逆に普段威張ってばかりいる男性でも夫婦の中ではすごく思いやりがあったり、そんな1000年前の話なのだが、男女の有り様は今も昔も変わらないということを、時にはコミカルに、時にはシリアスに描いている。そして、一つずつ手作りで作り上げられた音楽で構成されている。仲間が作ってくれた音楽であるが、いずれ豊橋を代表するようなお祭りソングに発展していく可能性を秘めた曲がある。豊橋といえば、「マツケンサンバ」などすごく有名な音楽があるが、それに取って代わるような大曲が今回出来上がったので、是非聞いていただきたい。そして、源氏物語が出てくるついでと言っては何なのだが、他に竹取物語、更級日記、土佐日記、そして枕草子も出て来る。枕草子の「春はあけぼの」、これも歌になっている。いろんな物語が途中で散りばめられ、見どころ満載になっているので、是非見に来ていただければ嬉しいです。
 この地域の文化発展のためにということで『神野神殿物語』というものをやらせていただいた。私は3回関わらせていただき、神野太郎さん、その前の神野三郎さん、さらにその前の神野金之助さんという役柄で、3代にわたって神野家の当主を演じさせていただいた。神野太郎さんは本当に文化に理解がある方で、戦争で負けて焼け野原だった時に「経済の発展はもちろん大事だが、まず文化を復興させなきゃいけない」と言って、文化協会を作らせたのが神野太郎さんだというお話をサーラグループ代表の神野吾郎さんからお聞きし、本当に感銘を受けた。こんな文化に素晴らしい土地で私も文化人の一躍を担わせていただいているのを本当に嬉しく感じた。これからもこの地域の発展を目指し、私なりにこの豊橋の文化をもっともっと盛り上げていきたいと思っている。東京から有名人を呼んできてやるというのももちろん文化の一つになると思うが、地元の中で湧き上がってきた人が盛り上げていく、そして全国に発信していく、そして全国から豊橋にこの舞台を見に人が集まってきてくれるようにしたい。本当にそれが今の私の夢である。これからも一生懸命頑張ってまいりますので、お力をいただければ嬉しいです。