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産学官民交流事業

2024.03.01 第240回東三河午さん交流会

1.日 時

2024年3月1日(金)11:30~13:00

2.場 所

ホテルアークリッシュ豊橋 4階 ザ・テラスルーム

3.講 師

三河古宮城址保存会副会長、愛知県職員 丹羽 貴裕 氏

  テーマ

『愛好家目線の奥三河の城 ~愛と狂気の世界~』

4.参加人数

36名

講演要旨 
 私が小学校3年生の時に親が厳しく漫画を読むなと言われ、唯一許されていたのが「少年少女日本の歴史」という小学館の漫画であったために、これを貪るように読み、その結果日本史好きになった。私の自慢は、就職先と大学が城の中にあったということである。金沢大学が当時は城内キャンパスと言って金沢城内にあり、私自身が城の中のキャンパスで過ごす最後の教養生として、兼六園の隣にある石川門を自転車でくぐって毎日城の中で勉強するという至福の時を過ごしていた。就職先も愛知県庁ということで、名古屋市中区三の丸の庁舎に長らく通勤していたというのが自慢である。たまたま観光で訪れた新城市にある古宮城を好きになり、県で誰を新城市役所に派遣するのか悩んでいた際、自分が人事担当であったことから志願して新城市役所に派遣が決定した。現在は新城市に居を構えており、名古屋から移住した。現在は生粋の奥三河好き、東三河好きとして、東三河県庁に勤務している。
 たまたまであるが、古宮城の整備ボランティア活動の立ち上げに携わり、それがきっかけで新城市と関わり合いを持ち続け、その他に、地元の郷土研究会「ちさと郷土研究会」にも誘われて入っており、先日は野田城の戦いについて30分ほど話をするといった機会もいただいた。また、「作手古城まつり」が今年5月14日に行われるが、そこに企画参加もしている。FM豊橋では、「うらにわ丹波守」という名前で城の話をしており、過去2時間通しで話をしたこともあった。
 他に名古屋市立大学の研究員を2022年度からやっている。私の専門分野は地方自治であり、新城市で地域自治区制度の導入を担当し3年間の苦労の末に導入することができた。そこで、自治会、地縁団体、地域の担い手というのは非常に奥が深い世界だと思っていた時に、たまたま地域自治区制度を調べに名古屋市立大学の先生が訪れたことから、地域自治区制度導入に関する話をまとめたいと思っていたため弟子入りし、名古屋市立大学の大学院に入学、大学院終了後引き続き研究員という形で、現在は新城市の舟着地域自治区の住民活動の支援など行っている。
 愛知県職員が本業であり、東三河総局企画調整部企画調整課で働いていて、主に地域振興や人事の担当が長い。尾張出身であるが、派遣先がすべて東三河であり、蒲郡にあるニデックさんに1年間お世話になった後、新城市役所の企画課で3年間、東栄町役場では、4年間仕事をしていた。
 本題に入ると、皆さんにはまず奥三河に城なんかあるの?という問いがあると思う。今回、「天守の呪い」というサブタイトルをつけているが、実は奥三河に城が214もある。他地区と比較すると東三河地区は404ということで、尾張や知多よりも圧倒的に多い。中・近世の県内ベスト3を出すと、1位は174で岡崎市。2位に新城市と豊田市が同数の169で入っていて、3位が名古屋市の118となっている。ちなみに豊橋市は52、設楽町33、東栄町10、豊根村2である。新城市は、名前自体が示すように城がかなり多い。しかし、皆さんそんなに城があるか?という感想を持ったのではないか。城の標準的なイメージは姫路城、松本城、松江城、犬山城、彦根城だと思われる。城=天守と考えると、奥三河には城はないという認識になる。
 奥三河の代表的な城はどういう城かといえば、スライド写真で写しているのは、新城市の古宮城、東栄町にある設楽城、そして道の駅三河三国の近くの柿本城の写真を写している。これらの城には天守はなく、「城=天守」の呪いがかかっていると、天守のない城ばかりの奥三河には城がない、と言われてしまう。しかし、世の中には、私のように移住までしてしまう城好きが存在している。では一体、奥三河の城の魅力は何なのかということで、城好きが奥三河で何を見ているのかを紹介する。
 奥三河へ来た城好きを密かに後からつけていくと、そこで目にした光景に言葉を失う。その城好きは突然山の中を駆け出すと、悲鳴ともつかぬ奇声を発し、大声で笑い出した。そこは何もない林の中であるにも関わらず、である。これは私の山城での行動を客観的に観察した友人からの多数の報告内容であり、自分を客観的に見るとどうもそう映っているらしい。なぜそうなるのか、その理由をこれからお話しする。山の中の林にしかすぎない古宮城を見て、なぜ叫んで笑うのか。実は城好きは、櫓や塀など自分の中で想像した画像を勝手に組み合わせて現地の状況を補正した画像を見ているのである。頭の中では、手前の柵を越えて侵入すると、奥で十字砲火を浴びてしまう、どうやって攻略したものか、と、考ながら進んでいくと、途中で攻撃を受けて死んだと気づいた時に悲鳴(奇声)を発するわけである。それはすべて脳の中で展開されているため、周りの人からするとただ騒いでいるように映る。たまに誰もいないと思い、大きい声で独り言を言っていると向こうから人がやってきて気まずい思いするというのはよくある話で、城好きあるあるである。奥三河に来る大抵の城好きは、このように脳内補正された風景、いわゆる「脳I画像」というものを見て叫んだり笑ったりしている。このように奥三河の城を楽しむためには、脳Iにディープラーニングさせないと楽しむことができない。そこで奥三河の城を楽しむために皆さんにも、どのようなディープラーニングを行うと脳内補正ができるようになるのかの話を次にさせていただく。
 城郭用語の基礎知識①として、まず「土塁(どるい)」がある。土を盛って作った壁であり、相手側からは城の中を隠す、城の中にいる人間からすると相手方から隠れることができる。あるいは、攻撃の時に敵より高い位置を確保し、攻められた時も矢とか鉄砲玉を防ぐ役割がある。敵を攻撃する場合、重力加速する分、位置が高い方が有利になる。例えば同じ距離で矢を射ても上から下に射る場合には重力加速分が加わり、非常に殺傷能力が高くなる。逆に上に向かって射てば威力が落ち、殺傷能力が低くなるため体を守ることができるという機能である。
 次の②が「堀(ほり)」で、こちらは土を掘って作った谷である。敵の移動の自由を妨げて味方の通路として使うこともある。等高線に沿って掘られた堀を「横掘」、等高線に対して垂直に掘った堀を「竪掘」という。掘った土はどこかに捨てる必要があるが、城側に盛り上げると先ほど説明した土塁になる。城が開発地域にあると、土塁を堀に持ってくるとちょうど土の分量が合い、あっという間に平坦地が完成するために、城が消えてしまう。ちなみに、横掘の方が実は新しい技術だそうで、竪掘の方が元々あったと言われている。横掘を掘るには土木量が必要になり、多数の工兵を動員できる能力を持っていないと難しい。
 城郭用語の基礎知識③として、「曲輪・郭(くるわ)」がある。地面を削って平らにした城の区画であり、本丸、二の丸、三の丸と表記されている。本丸に近づくほど高く、敵から中が見えないという形になっており、その本丸には城主クラスが住んでいる。
 城郭用語の基礎知識④として、「虎口(こぐち)」がある。少し専門的になるが、虎の口と書いてこぐちと言う。これは城の出入り口であり、防御を考えた場合城の弱点になりうるため、工夫が凝らされる。一直線に敵がそのまま勢いよくぶつかると門を破られ入られてしまう。これを防ぐため道を曲げたり(喰違虎口)、門を二重にしたり、三方向から攻撃可能で相手を殲滅するというような桝形にして敵の侵入を防ぐものもある。戦闘する中で城郭技術が発展し、名古屋城や姫路城などにもこうした技法が使われている。入る場所が小さいので小口、敵の中に入るので「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の虎口、等、語源には諸説がある。この中に敵が一緒になってなだれ込んできてしまうのを付け入るという言葉で表現しており、例えば弱みに付け込んでというようなものの語源は、実はこの城の中に敵が付けて入ってきてしまうということだそうである。
 続いて、城郭用語の基礎知識⑤が「馬出(うまだし)」である。これを知っていると城はかなり楽しめる。虎口を守る防御施設として敵兵力を分散させる、戦闘を城外で行う、城の中をわかりにくくするといった機能を持っている。馬出が巨大化して曲輪になることもある。丸く作られるものを丸馬出、四角く作られるものを角馬出という。例えば丸馬出があると、敵は堀を下ってから土塁を登り城内に入るか、左右の門から入るかしかない。堀を下り土塁を登れば体力も使い、その間攻撃されてしまうため、効率性を考えれば馬出沿いに進んで奥の両側の門のところへ行く形になる。そうすると100人いた軍勢も50人と50人、20人と80人という形に分散する。城内に兵が50人しかいなくても、敵の兵力が散らされるため十分戦うことができる。馬出は城の外にもうひとつ曲輪を設けたような形であるため、城外の戦闘を城の中に持ち込ませないこととなる。一部犠牲になる人にごめんなさいと言いながら門を閉めてしまえば、城の中を守ることができ、戦闘を城の外へ持っていくことができる。また、城の中から奇襲をかけようと思った時、門が開いたら外から丸見えであるため、城兵が出てくるぞと敵が防御することができる。しかし、馬出があると、一旦この馬出まで出てきて、土塁上から外側をひっそり見て、敵が寝静まっているから一気に撃って出ることができるようになる。武田信玄は丸馬出を好んで多く使っている。
 城郭用語の基礎知識の⑥番目は、「縄張(なわばり)」である。城の設計図面であり、地面に縄を張り、土塁、堀、曲輪などの配置を決めたことから来ている。城の工夫というのは、縄張りを行う時にだいたい決まり、その城の強さが見えてくる。縄張図を見ながら、防御に関する考え方など築城者の意図を読み解いていくという謎解きができるところも、非常に面白い。建物がなくても、例えば城の橋を渡っている時に、右側に例えば曲輪の出っ張りがあったりすると、あちらから狙っているのでここを迂闊に入ってはいけない。ちなみに、縄張りを荒らしやがってと言っている語源はこの縄張りから来ているらしい。ちなみに、画像の縄張図は、私の大好きな古宮城のもので「続100名城」として全国トップ200にも選ばれ、土の芸術品とも言われている。
 ⑦番目は「横矢(よこや)」である。城を攻めてくる兵を、正面だけではなく、側面や背後から攻撃する仕組みであり、横から矢を射かけるということで横矢と言う。馬出の中に入ろうとした敵は、横矢からの攻撃を受けて大きなダメージを受ける。敵の利き手、右手を狙うことが多いため、城から見て左側、敵から見て右側に張り出しが設置されていることが多い。名古屋城も本丸御殿のある本丸に入る時に櫓が右側に立っているが、これが横矢をかけるための機能である。機会があったらご覧いただきたい。このように様々な防御機能を地形に合わせて組み合わせて、敵に最大のダメージを与えようと意図したものが城である。例えば、敵が攻撃側の総戦力より多くても、馬出によって攻撃側の兵力が分散して、各戦闘場面では少数になる。また、攻撃側は常に城内からの攻撃にさらされながら障害を突破しなければならず、防御側は城に守られながら戦うことができる。
 ちなみ城好きはどういう人たちがいるのかを自分なりに6つに分類した。最初は「天守萌え」である。これは城好きの王道であり、天守を巡るために城を旅する人も多く、一般の人からもあの人城好きだねと言われる。ただこれも建築様式、徳川は白で豊臣は黒だとか、石垣の形態などに凝り始めると奥が深い。次に「逸話萌え」がある。歴史好きはこの類型が多い。歴史上の有名なエピソードの場所を訪ねるということが一番の目的である。続いて「数萌え」である。限られた日程であれこれ見る欲張りな人たちである。羽柴秀吉が行った「中国大返し」並みのすごいスピードで移動するため、メンバーに体力差があると成立しない。次いで「縄張萌え」がある。築城者が侵略者をどう誘導し、殲滅しようとしたかを縄張りから読み解いていくタイプである。城の部屋割である縄張見たさに見学順路から外れることが多く、意外な場所から突如現れて他の見学者を驚かせたりする。さらに「現説萌え」という形態がある。遺跡発掘の現地説明会や講演会に出席するなど学者顔負けの人々である。過去から城研究を支えてきた層であるが、質疑応答の際、自らの知識を披露することに快感を覚えてしまい、長く自説を述べて周囲が白けるといったことがある。最後に「体力萌え」がある。山城を巡っていくと軽登山になり、トレイルランのような状態になる。体力を消耗すると脳内からエンドロフィンのような物質が出てきて幸せになり、喜びを感じてしまう人が結構多い。このように城好きを大きく分けると6形態に分類されると思う。
 さて奥三河の城の特徴は何か。奥三河の歴史として、どうして城が多いのかという話になる。まず奥三河は、今川、徳川、武田といった巨大勢力に挟まれ地元領主が翻弄されたため「風になびく葦」とも言われていた。長篠の戦いで織田・徳川の勢力圏として確定し、ようやく安定した。奥三河周辺の国人領主の位置関係図を見てみると、主だったところで山家三方衆と言われる田峰菅沼氏、奥平氏、長篠菅沼氏で、奥三河の戦国時代では有力な三家となっている。元々三河というのは足利氏の直轄領であり、室松時代は有力な守護が置かれていない。一応守護は置かれたが、全域ではなかったり、短期間で異動したりと、国人領主の独立性が高い傾向があったようである。国人領主たちの来歴は資料が少なく不明な点も多いが、承久の乱の際の新補地頭、後醍醐天皇の建武の新政、北朝側の足利尊氏と直義の兄弟喧嘩である観応の擾乱、あるいは三代将軍足利義満や六代将軍足利義教による有力守護の圧迫、応仁の乱、明応の政変と呼ばれるような、中央政府の様々な政治的対立がこの地域の領主の成立に影響していることが、近年研究が進み明らかになってきている。
 調べていくと、東三河を大勢力の当主が確保すると、なぜか死亡している。そのために風になびく葦にならざるを得なかったといえる。例えば、今川義元の父である今川氏親が駿府から西へ影響力を徐々に強くしている。応仁の乱の戦いの影響で今川氏と斯波氏が遠江を舞台に争ったことから、今川氏としては斯波氏の背後を突くため三河と連携したいと考え、今川氏親から奥平氏への書状が発給されたりしている。今川氏が遠江から斯波氏を追い出した後は、斯波氏の残党が三河にいたこともあり、結果的に今川氏は三河まで進出してきた。今川氏親は、伊勢宗瑞(北条早雲)とともに豊橋の戸田氏や牧野氏を追い払って直轄領にした途端に死んでしまう。後継者の今川氏輝は体が弱かったのか対外的に積極的でなく、その隙に西三河で松平清康(徳川家康の祖父)が登場し東三河を制圧したが、織田と戦っていた際に森山崩れてすぐに死んでしまった。その後、今川義元が力をつけて東三河を制圧するとすぐに桶狭間で死んでしまった。今川氏との戦いで徳川家康が東三河を獲ったものの、武田信玄が侵攻してきて奥三河を制圧したが野田城の戦いの後に病死した。そして、長篠の戦いで徳川家康が武田勝頼に勝って、やっと徳川領国として安定したのである。
 考えるに、近隣の大勢力が東三河を攻めに来る場合、領国規模が最大まで伸びきっている時が多く、その武将の晩年であったり、領国の急拡大で不安定になったりすることが要因ではないかと思われる。結果、地元近く出身の徳川家康が最終的な勝者になったと考える。
 奥三河の城の特徴は、1番目に巨大勢力の境目であるため城の数が多いこと。2番目として、城づくりがマニアックな武田氏による丸みを帯びた、馬出など高度に発達した機能を充実させた城が多く、県内の他地域に比べて作りが複雑なことである。3番目として、過疎地域で開発が進んでおらず、遺構の残りが良いこと。4番目は武田、織田、徳川といった巨大勢力が城を作っているため、動員兵力が多く土木作業量が非常に多いため見応えがあることの4点である。奥三河の城はこだわりすぎて、こじれ気味であるといえよう。
 奥三河の城の可能性として、最後に地域資源として城の話をしたい。奥三河の城を皆さんと一緒に楽しみたいと思うものの、1回見たらそれで充分、となってしまう。それが残念という思いがあり、城好きが集まって話せる機会を作りたいと思い、古宮城において完全手弁当で整備活動をやっている。笹が生い茂って、城の地表面観察ができなかったために刈りたい、と考えていた時に、当時の新城青年会議所の方が、地域の宝物磨きということで、整備活動を企画したいと企画運営への参加の誘いがあって参加した。残念ながら、青年会議所の活動は単年度で終わってしまうため、一緒に相談に乗っていた地元の長老で古宮城好きな方と一緒に活動を引き継いだ。活動は、今年で12年、コロナで1回休んだために、11回目を昨年開催した。地元の方に加えて、東三河、糸井川、恵那、桑名、名古屋、袋井など、全国から古宮城好きが交通費自腹で毎年参加し、新規参加者も年に1名程度来ている。古宮城が全国トップ200の「続100名城」に2017年に選出され、市の史跡にも指定されているが、こうした活動も評価の対象となったと聞いている。毎年10月の第3土曜日に開催するので、皆さんもぜひご参加いただきたい。
 また、奥三河の城を皆で一緒に楽しみたい、でも楽しむには、ディープランニングが必要で敷居が高いというところを何とかしたいと思い、城を体感できるイベントができないかと考え、東栄町にある設楽城で極寒の水鉄砲合戦を企画・開催した。城を理解するには実際に攻めるのが一番であるため、設楽城の丸馬出を使って水鉄砲合戦を2022年までに4回開催している。全く城を知らない人たちが参加しているが、試合を重ねるうちに、皆さん無意識のうちに城郭機能を活用して戦っている。参加者はリピーターが多く、都市部の若手社会人が多い。帰る際、多くの参加者が飲食や温泉を利用しており、観光にも寄与している。
 さらに、これまで地域の史跡整備を担ってきた地域活動団体は高齢化で活動継続が困難になってきているため、史跡整備ボランティアをアクティビティにしようと今取り組んでいる。自分の趣味と本業である東三河県庁の仕事を融合させて、歴史を活用した関係人口創出のための実証実験を行っている。史跡整備は、普段滅多に入れない場所に入り、学芸員の深い知識に触れるチャンスと考えるマニアが一定数存在しているが、史跡とマニアを結びつけるため、東三河県庁と東三河市町村の共同で、地域外からボランティアを受け入れる実証実験を行い、地域の企業やボランティア団体に呼びかけたところ、74名の新たな参加者に参加いただいた。現在、持続可能な仕組みに向けて検討中であり、検討に参加してくださる方も募集していこうと考えている。
 こうした愛と狂気の世界へ、ぜひ皆さんもご興味を持っていただけることを願いまして、本日の話の結びとしたい。